2月29日に公民権を回復し、政治活動を再開していた金大中は、3ヶ月後の1980年5月18日に再び逮捕されていた。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった(光州事件)。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、国家保安法違反で死刑判決を受けた。
2月29日に公民権を回復し、政治活動を再開していた金大中は、3ヶ月後の1980年5月18日に再び逮捕されていた。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった(光州事件)。このため、軍法会議で首謀者として、また1977年に発生した学園浸透スパイ団事件での“摘発スパイ”の自白から「韓国民主回復統一促進国民会議」の議長とされ、国家保安法違反で死刑判決を受けた。